若月俊一の活動から振り返る、農村医療と有機農業

若月俊一の活動から振り返る、農村医療と有機農業

講師 浅沼信治 日本農村医学研究所客員研究員/農学博士

 佐久病院に若月俊一先生が赴任されたのは、1945年3月6日。その4日後に大空襲があり、先生の住んでいた東京は焼け野原。もしも先生が東京にいたら、と不思議な縁を感じます。その翌年には、病院祭や長野県農村医学会を始めるのですが、食に関しては、昭和22年に日本で最初の病院食をはじめます。若月先生は、外科医として、その手術は素晴らしいものでしたが、食事が貧しく、予後が思わしくありませんでした。そこで、車の後ろ座席を改造し、往診のたびに米を持ち帰り、いわゆる闇米で患者さんの食事を賄いました。そのため、当時は、「若月先生の手術と銀シャリがあれば病気は治る」と言われたほどです。しかし、若月先生の思いは、どんなに貧しい人でも、等しく医療が受けられるようにという「平等」でした。
 そして高度経済成政策で食糧増産の時代になり、農業や化学肥料が大量に使われるようになりました、動力噴霧器で散布される農薬は、霧のようになって、その散布された液剤は涼しくて気持ちがいいぐらいの感覚でしたから、その毒性については、まったく知らされていませんでした。それもそのはず、第二次世界大戦で、ドイツが開発された人を殺すための毒物・パラチオンが、敗戦でアメリカに奪われ、それが1925年に日本に農薬・ホリドールとして登場したのです。多くの農民が散布中に倒れ、続々と病院に運ばれ、死んでいく人もいました。その反省から、有機農業の大切さが見直されていきます。
 話は変わりますが、いま、私は農業機械災害を防ぐ運動に身を置いています。毎年農作業事故で死亡するのは350人。農業就業人口が減っているにも拘わらず、その傾向はこの40年間まったく変わりません。この5年間、農作業事故の対面調査をするなかで痛感することは、これらの事故は個人の責任ではなく、日本の農業政策が間違っているために起こった、いわば「農政災害」であるということです。私の近しい尊敬する医師が、農業に疲れて病いに倒れた農家の方の処方箋に、薬ではなく「後継者一人と書きたい」と言われた言葉が耳から離れません。
 考えてみれば、日本の国民の健康を守る基本は、日本の国土を守り、日本の農業・農村を守ることです。世界中で、日本ほど農業に適した国はありません。農産物を輸入に頼るなど論外です。いま、東京など都会では高齢者が急増しています。このままでは、医療も福祉も介護も賄いきれません。その人たちが農村に移り住み、農作物を自分たちで栽培し、その美味しさや生産の喜びを感じ『いただく』ことに感謝しながら、元気に死んでいく、そんな社会をつくりたいものです。大量生産ではなく、家族経営の農業を大切にする。それが有機(しくみのある)農業意義でもあると思います。